人間のキズを癒す言葉には二つある。一つは「励まし」、一つは「慰め」である、と五木寛之さんは語る。 人間はまだ立ち上がれる余力と気力がある時に励まされると、ふたたび強く立ちあがることができる。ところが、「もう立ち上がれない。自分はもうだめだ」と覚悟してしまった人間には励ましの言葉は上滑りしていくだけである。 「頑張れ」という言葉は戦中・戦後の言葉である。私たちは50年間、ずっと「頑張れ、頑張れ」といわれて続けてきた。しかし、頑張れといわれれば言われるほど辛くなる状況もある。 その時に大事な言葉は何か。それは「励まし」ではなく「慰め」である、もっといえば慈悲の「悲」という言葉である。 孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。そういう時にどうするか。無言でそばにいてやるだけでもいいのではないだろうか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。深いため息をつくこともそうだ。手のぬくもりとともに閉ざされた悲哀や痛みが他人に伝わって拡散していくこともある。 どちらかといえば、励ましは父親、慰めや悲は母親の心情のような気がする。 小学生とその母親の会話 「お母ちゃん、僕、なんで塾にまでいって勉強せなならんの?」 「それは、ええ中学に入るためや」 「なんで、ええ中学に入らなあかんの?」 「そら、ええ高校、ええ大学行くためや」 「なんで、ええ高校、ええ大学へ行かなあかんの?」 「そら、ええ会社に勤めて、ええ嫁さんもろうて幸せになるためや」 「そやけどな、お母ちゃん、いま僕、勉強せんほうが幸せなんやけどな・・・」 将来への空手形を目指して、こうやって子供の尻を叩くことが子供のためだと思っている親は多いと思うが、それが本当の幸せかどうかは、いまの世の中を見れば明らかである。 ジャン・ジャック・ルソーは『エミール』の中で、「教育とは、子供の現在の幸福をしっかりと守ってやることだ。子供の将来の利益になるからといって、子供の現在の幸福を犠牲にするような教育を行ってはならない」と書いている。 現在の幸せを犠牲にした今日の教育が、子供たちをキレさせているような気がする。 |